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じいさんが残してくれたもの

こんばんは、らしく㈱の堀です。

今回はとても私的な話ですが、今週に逝去した自分の祖父について思う事を書きたいと思います。(ブログ写真は駒ケ根市の実家でとった夕暮れです)

 

自分の母方の祖父は2/5の午後、自宅のある長野県駒ケ根市の病院で静かに最期の時を迎えました。88歳でした。

つい前日までは今までと変わらない状況でしたが、5日午前に容体が急変し、そのまま息を引き取りました。

そのため、自分自身も今週は急きょ長野の実家に戻り、通夜と告別式などに参列し、諸々の手伝いをして少し前に自宅に戻ってきました。

 

祖父はどんな人だったかというと、寡黙でよくしゃべるタイプではなかったのですが、身長が180センチ以上あって見た目にも迫力があり、言葉よりも背中を見せて皆をひっぱる大黒柱、という印象でした。

 

1929年生まれで、2歳の時に父を亡くし、祖父に育てられたようですが、10代でさらに祖父も亡くし、21歳で祖母と結婚するまではとても寂しい思いをしたのだと思います。

また、1945年に終戦するまで、10代の頃は特攻隊の訓練生として準備をしており、いつ戦争に駆り出されてもおかしくない状況だったようです。

 

終戦・結婚後は駒ケ根市の消防署に入所し、経験をつみ、やがて駒ケ根市の2代目消防署長に就任し、以後35年もの長い期間にわたり市の消防署長を勤めあげました。(この功績は後に天皇より叙勲を与えれる事になりました)

 

同時に、自然や芸術をとても愛する人でもありました。

 

広大な畑で農作物を育てる事を日課としつつ、自治体との収用換地で入手した山も大切に手入れして、孫が将来大きくなって家を買う時がきたら、その山で育てた材木を使ってほしいと考えてくれていたようです。

 

絵画や書道も好きなだけでなく腕前も評判だったようで、駒ケ根市にある大御食(おおみけ)神社の入口にある石碑の「美女が森」という見事な文字は祖父が毛筆で書いたものだという事を最近になって知り、改めて驚きました。

 

そんな偉大な祖父の生涯を通じて影響を受けた事はやっぱり多いですね。

 

10代で戦争に巻き込まれ、また戦後の日本がどうなるか全く見えない中でも自分の人生をしっかり歩み、確固たる地位も築いた凄まじいほどの力強さ。

大変な幼少期・青年期を過ごし、言葉にできないほどの困難があったにもかかわらず周囲にはその経験を話すことなく平然としていた胆力。

親族一同で集まって楽しみながらも絆を深める機会を定期的に設けてくれた配慮。

 

中でも、個人的に一番影響を受けたのは「駒ケ根の自然の素晴らしさ」を子供の頃に教えてくれたことです。

山頂付近のキャンプ、カブトムシ採り、鮎やニジマスのつかみどり(「うろづかみ」という岩の間にいる魚を手掴みする方法)、夏の夕暮れのヒグラシの物悲しい鳴き声、これらを通じて自然で遊ぶ楽しさ、素晴らしさを教えてくれました。

 

今の自分が地域を良くしたいという思いをビジネスにしているのは、駒ケ根の祖父からの影響は間違いなくあります。

 

じいさんが教えてくれたこと、残してくれたもの、これを本当に大切にして生きていきたい。

 

じいさんが保有していた山の材木は、将来自分の家を修繕する際、必ず目立つ部分に使用して毎日じいさんの存在を思い出せるようにしたいと思う。

自分が生きていくこの先の数十年は高齢化問題など重たい課題は間違いなくある。

でも、じいさんが生きてきた激動の時代に比べたら、この時代なんて全然大した事ないと思う。必ず力強く生きていけるはずだ。

 

1つだけ心残りがあるとすれば、じいさんに自分の子供(ひ孫)を見せられなかったこと。

でも、祖父と孫の関係は、何か、どこかしらは満たせない思いを互いに抱えつつ、最期の別れを受け入れる運命にあるのかなとも思った。

祖父と孫が分かり合える時間は短く、その刹那的な要素があるから尊い思い出が刻まれていくのだと思う。

 

だから、シンプルに毎日をムダにせず懸命に生きていきたいと思う。

 

じいさん、88年間の人生、本当にお疲れ様でした。

あなたが残してくれたものは、自分が思う以上に大きく、これからも周りの人達の心に在り続けると思います。

ご冥福をお祈りします。

 

最期まで読んでいただき、ありがとうございました(^^)

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